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5D2 10東北 志賀利和気神社(しがりわけ):紫波郡紫波町桜町

天明5年(1785)菅江真澄は「毛布の狭布」(けふのせばぬの)で志賀利和気神社について記している。
秋田県鹿角から二戸郡安代を通り、浪打峠「末の松山」を目指し(ここは今でもかなり山奥!)そしてその夜の宿の話が泣ける。
どう泣けるのか?は是非「けふのせばぬの」読んでいただければ幸いであります。
その後、真澄さんは北上川を南下して行くのだが、盛岡を抜け九月九日に紫波の志賀利和気神社を「参拝」している。
わりとあっさり「赤石明神」の解説だけ(菅江真澄遊覧記・平凡ライブラリー版)・・・原本ではもっと詳しいのかね?
さらに天明8年(1788)いよいよ真澄さん念願の蝦夷の地目指しての道中、六月に再びここを通過している。→「岩手の山」
こちらもやはり何か物足りないんだけど・・?・・これ以上追求しても仕方ないのでここでは止めとく。

志賀利和気神社の由緒:
【延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取、鹿島の二神を当地の鎮守として斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)
に勧請合祀したと伝えられている。爾来、東北六郡を領した藤原秀衡の族、樋爪氏を始め、高水寺城主斯波氏など当地を領した
累代領主の厚い尊崇を受けた。〜境内に方三尺余の赤石があるところから赤石神社の通称で親しまれる日本最北の延喜式内社である。】
東北の神社で良く見る「田村麻呂・由緒」なんだけど、どう考えたって実際はそんなものじゃナイッショ!?
どうもこのなんでもかんでも「田村麻呂由緒」ってのは、明治の神仏分離に始まり、昭和初期の国家神道強化の結果としか思えない。
国家(=ヤマト朝廷)の都合により創られたり、消されたり、、ほんとに神サマの受難は今でも(この二十一世紀でさえも)続いている。
(なお、そんなご都合由緒でも文脈をよ〜く読んでいくと、けっこう本音や意地が垣間見えたりして面白いこともある・らしい・よ)

前書きが長くなりすぎて、何書きたいのか分かんなくなっちゃってるけど、
志賀利和気神社の本来の神サマは、境内にある赤石明神「志波彦神=男神」そのペアとして「志波姫神=女神」であるならば、
つまり「瀬織津姫=女神」と「アマテル=男神」のペアと同体ではなかろうか?ということになる。
(※「エミシの国の女神」菊池展明:著を参考にしてます)
★☆
素朴な疑問として、すぐ裏を北上川が流れていながら堤防もないのに、何故この神社は昔から無事だったのか?・・・不思議です。
★☆★
余談・グーグルマップ上「志賀利和気神社」では検索できません。表記は「赤石神社」なのです。これはある意味面白いかも。
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EF50mm F1.4

 
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